吉田松陰の愛弟子の一人、品川弥二郎の生涯。松陰門下生で明治維新に多くかかわっているのにあまり出世していない、というイメージがある。内務大臣でありながら大規模な選挙干渉事件を起こしたことが影響している。伊藤博文に糾弾され下野する。内務大臣まで出世しているのである。100名弱いたとされる松下村塾門下生の中では出世した方。九段下に銅像もあるし。
名も知られていない 門下生が多いことに気づいた。まず維新を生き残り、藩閥政治でチャンスをつかみやすい軍隊、政界、経済界に進出し、さらにその中で成功した人だけが名を残している。 過去の栄光は一通過点でしかないことに気付かされる。
京都に尊攘堂を建てるなど師の松陰を最後まで慕っていた。松陰の留魂録の「どんな若い人にも四季が備わっている」という話にもあらためて思いをめぐらした。他人から見ると短い人生だった、という自分の経験をもとに考えがちだが、当事者は自分の経験した範囲で大変だったこと、頑張ったこと、良かったこと「春夏秋冬」を感じている。だから悔いは無いんだ。というのが自分の解釈。だから自分の思ったように生きればそれでいい。
・本願寺史に元治元年の蛤御門の変で敗走する長州兵を変装させて逃走を助けたという記述がある
→織田信長に攻められ苦戦していた石山本願寺を毛利輝元が水軍を送って救援した縁で本願寺は毛利氏に好意的であった。
弥二郎は錦旗の図案と反物をたずさえて山口に帰り、萩の有職師・岡吉春に錦旗の製作を命じた。岡は山口一ノ坂川べりの諸隊会議所で、人の出入りを厳禁し、三〇余日をかけて、日月章の錦旗各二りゅう、菊花章の紅白旗十りゅうを製作した。
→山口市の案内と異なる。錦旗製作所
・幕末で一番好きな流れ
7月19日の蛤御門の変で朝敵とされた長州藩のその後は、惨憺たる経過をたどる。200人余りの死者を京都に残して逃げ帰った兵士たちが、1カ月足らず後の8月5日、英仏蘭米四か国連合艦隊の来襲を迎えて大敗、ここで幕府や勅許を得て長州征伐の軍を進めるが、長州藩が蛤御門の変の責任者とされる三家老の首を差し出して、謝罪恭順の姿勢を示したので不発に終わった。
しかし元治元年の末、福岡に亡命していた高杉晋作が舞い戻り下関の功山寺で挙兵して、藩の俗論派政権打倒に成功、倒幕の藩論を回復した。幕府は再び長州征伐の軍を起こし、諸藩15万の兵で芸州口、石州口、大島口、小倉口から長州を包囲した。第二次征長戦は、慶応2年(1866)6月に始まる。4つの国境で火を噴いたので四境戦争と呼ぶ。