長州藩は幕府軍の細川藩が小倉に到着する前に幕府側の上陸拠点旧門司・田野浦を攻撃することを計画した。この攻撃を前に上陸時の最大の脅威である幕府軍艦を大島沖で奇襲し広島方面へ逃走させた。
慶応2年(1866年)6月17日5時、丙寅(へいいん) 丸ほか2隻が田野浦を砲撃。同じく坂本龍馬が指揮する乙丑(いっちゅう)丸ほか1隻が旧門司を砲撃した。旧門司側に対しては対岸の壇ノ浦砲台からも砲撃が行われた。
8時ごろ長州軍の第1梯隊(ていたい)が古城山東麓に上陸。新開・大久保海岸を守る6番手小笠原織衛(おりえ)が応戦するも後退。田野浦駐屯の1番手島村志津馬が高橋30人洋銃隊主力の1隊を派遣した。しかし、長州軍第2梯隊が田野浦の東側に上陸。長州軍が田野浦を東西から挟み撃ちにする体制をとり 、小倉軍の1番手は10時30分に大里方面へ後退した。
第1梯隊から分かれた山県狂介率いる奇兵隊が古城山の東から梶鼻砲台を占領後、筆立山方面の本村の小笠原近江守の攻撃に向かう。
乙丑丸の砲撃で門司浦の甲宗八幡社、真光寺等が炎上。旧門司を守備していた3番手渋田見新(しぶたみあらた)は大里に後退した。
概ね正午までに長州軍の旧門司と田野浦の占領で終了。旧門司、田野浦にあった上陸用の船を焼き払い、夕刻には馬関に撤退した。
(参考)「鎮西の風雪 防人から奇兵隊まで」陸上自衛隊第四師団服務講習所 案浦照彦(1973)